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稚内港北防波堤ドーム(わっかないこうきたぼうはていどーむ)
稚内港のシンボル的存在の建造物で、昭和6年(1931)から同11年(1936)まで5年の歳月をかけて建設されたもので、建設者は北海道大学を卒業して3年目、北海道庁の技師として稚内築港事務所に赴任してきた当時26歳だった土屋実氏です。
稚内は、日本海とオホーツク海がぶつかれ、四季を通じて強風が吹く波高いところとして知られていますが、高波は当時かろうじて完成された5.5mの防波堤をも易々と越えて岸壁にいる乗船客を襲い、時には海に転落するという事故もあったことから、波よけが必要となり造られたものです。
胸壁をかねる円蓋を持つ蒲鉾を縦に半分にしたような半アーチ型のデザインは、この強風と高波を克服するためのもので、高さ13.6m、柱の内側から壁までが8m、総延長427m、柱の数は70本あります。
昭和13年(1938)には線路がドームの端まで延長され、ドーム全面に2階建ての稚内桟橋駅が設けられたため、列車を降りた乗客が雨等に濡れずそのままタラップで乗船できるようになりました。「稚内港北防波堤ドーム」は、樺太へと渡る人々で賑わった頃のシンボルでもあり、古代ローマ建築を想わせる太い円柱となだらかな曲線を描いた回廊は、世界でも類のない建築物として内外の注目を浴びています。
半世紀を経て老朽化が著しかったため、昭和53年(1978)から3年間、19億4千万円の費用を投じて全面的に改修工事が行われました。
また、昭和62年(1987)には、ドーム手前の護岸部分に、道内でも数少ない散策歩道を設置したモダンな遊歩道「しおさいプロムナード」が誕生しました。長さは215mで、稚内市の花・ハマナスをイメージしたモザイクタイル貼りになっており、潮風を浴びながら散策する観光客やカップルの姿をよく見かけます。
平成13年(2001)に、北海道遺産に指定を受けました。
平成24年(2012)には、稚内港北防波堤ドーム周辺が「北防波堤ドーム公園」として整備されており、様々なイベントが開催されています。
生成28年(2016)に、竣工80周年を迎えました。

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稚泊航路記念碑(ちはくこうろきねんひ)
稚泊航路は、稚内と樺太大泊(現・サハリン州コルサコフ)間を運航していた鉄道省による連絡航路です。大正12年(1923)5月に運行が開始され、以降昭和20年(1945)年8月に航路が廃止されるまでの22年間に284万人もの乗客を運びました。
太平洋戦争中は、この航路を利用する旅客、貨物とも急増し、終戦を間近にひかえた昭和20年(1945)年8月13日からは緊急疎開設置による樺太島民の引揚輸送がはじまり、連絡船のほかに軍艦や貨物船も動員しましたが、同年8月24日、22年間の業績を讃えるため、昭和45年(1970)11月に「稚内港北防波堤ドーム」のほぼ中央の位置に記念碑が建てられました。
-碑文-
この地稚内から、いまは異国の地、樺太大泊に、国鉄稚泊航路が開設されたのは、宗谷線が稚内まで全通した翌年の大正12年5月1日である。
この航路は、167キロの海上を約9時間を要し、ときに宗谷海峡特有の濃霧、あるいは結氷、流氷との悪戦苦闘により守られてきた。昭和2年砕氷貨客船亜庭丸(3,593トン)が就航するに及び、その往還は飛躍的に繁栄の一途をたどってきた。
しかし、終戦直後の昭和20年8月24日18時、22年にわたる歴史的使命を終え、その幕を閉じたのである。
いまここに星霜20有余年、稚内桟橋駅がその面目を一新するときにあたり、有志相図り稚泊航路の輝かしい業績と、喜多先人の苦労を銘記してこの碑を建立し、永久に記念するものである。
昭和45年11月吉日
有志を代表して
旭川鉄道管理局長 深沢今吉
稚内市長       浜森辰雄

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稚内公園
稚内市を訪れる観光客が、必ずコースに取り入れる稚内公園は、観光の街・稚内のシンボル「氷雪の門」をはじめ、たくさんのモニュメントが立ち並びます。
稚内公園は、約45.2ヘクタールの面積をもち、展望施設と郷土資料館が一緒になった「稚内市開基百年記念塔/稚内市北方記念館」や、樺太(現在のロシア連邦サハリン州)や樺太犬に関係するモニュメントが点在しており、隣接して約50ヘクタールの「森林公園」があります。道路は急勾配でカーブが多いため、冬季間は通行止めとなります。
稚内公園は、市街地裏手にある丘陵をステップ式に利用して造られており、晴れた日にはサハリンの島影を捉えることができる旅情豊かな公園です。また、緑豊かな丘の上に位置するだけに、空気も美味しく、キタキツネやシマリスなども遊びにやってきます。
また、昭和50年(1975)から、「日本一短いロープウエイ」と知られる「稚内公園ロープウエイ」があり、親しまれてきましたが平成18年(2006)廃止となりました。

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氷雪の門(ひょうせつのもん)
正式名称は「樺太島民慰霊碑」といいます。
碑は、黒大理石の霊石を配した高さ8mの望郷の門、雪と氷の中で厳しく生き抜きそして敗戦の失意から再びたくましく立ち上がった人々を象徴する高さ2.4mの女性像からなります。
真ん中のブロンズ像には、それぞれの意味が込められています。
顔は、戦争で自分達が受けた苦しみを表し、手の平を見せているのは、樺太も家族も、すべてを失った事を表し、足は、その悲しみや苦しみから早く立ち上がろうと表現した物で、その足の間の波模様は、海峡を表し、胸の3本のV字は、雪と氷と風を表しています。
かえらぬ樺太への望郷の念と、樺太で亡くなった人々の慰霊のために昭和38年(1963)8月20日に建立されたもので、以来毎年8月20日に樺太ゆかりの人々が集まり「氷雪の門・九人の乙女の碑 平和祈念祭」(以前は同慰霊祭として開催されていました)が行われ言います。
氷雪の門は、稚内樺太引揚者連盟が慰霊碑建立期成会を結成し、全国樺太連盟の協力を得て肉眼で樺太を見ることができる稚内公園に慰霊碑を建立する運動を展開し、全国各地からの心温かい支援を受けて完成したものです。
設計と制作は、ヒューマスティックな作風で知られる札幌出身の彫刻家・本郷新氏が手掛けたもので、美術の教科書等にも掲載されるなど、美しく芸術性の高い作品として知られています。
-碑文-
人々はこの地から樺太に渡り、樺太からここへ帰った。戦後はその門も固く鎖された。
それから18年、望郷の念止みがたく樺太で亡くなった多くの同胞の霊を慰めるべく肉眼で樺太の見えるゆかりの地の丘に木原豊治郎氏、笠井安一氏の熱意と、全国樺太引揚者連盟の賛同並びに全国からの心あたたまる協力によって、ここに記念碑を造る。
氷と雪の中で厳しく生き抜いた人々の象徴する女性像、望郷の門、霊石を三位一体とする彫刻家本郷新先生の力作がここに出来上がった。この記念碑を氷雪の門と命名した。

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九人の乙女の碑(くにんのおとめのひ)
昭和20年(1945)8月20日、終戦5日後に、樺太真岡郵便局で電話交換業務を終えた後、自ら若い命を絶った9人の女性の霊を慰めるために建てられた、高さ1.8m、幅2.4mの登別石で造られた屏風状の碑です。
交換手姿の乙女の像を刻んだレリーフをはめ込み、亡くなった9人の女性の名前、そして彼女達の最後の別れの言葉となった『皆さん、これが最後です。さようなら、さようなら』の文字が刻まれています。
氷雪の門の横に寄り添うように建てられ、氷雪の門とともに除幕され、毎年同時に平和祈念祭が行われています。
この碑は、彫刻家・本郷新氏と樺太引揚者で札幌市在住の上田佑子さんの寄進ににより造られたもので、碑文は当時の北海道知事・町村金五氏、説明文は当時の稚内市長・浜森辰雄氏の筆によるものです。
北方記念館(開基百年記念塔)には、関係資料が展示されています。
-説明文-
戦いは終わった。それから五日、昭和二十年八月二十日ソ連軍が樺太真岡に上陸を開始しようとした。その時突如日本軍との間に戦いが始まった。戦場と化した真岡の町、その中で交換台に向かった九人の乙女らは、死を以て己の職場を守った。窓越しに見る砲弾の炸裂、刻々迫る身の危険、今はこれまでと死の交換台に向かい「皆さんこれが最後です さようなら さようなら」の言葉を残して静かに青酸カリをのみ、夢多き若き尊き花の命を絶ち職に殉じた。
戦争は再びくりかへすまじ、平和の祈りをこめ尊き九人の乙女の霊を慰む
可香谷 シゲ   高城 淑子
高石 ミキ     松橋 みどり
吉田 八重子   伊藤 千枝
志賀 晴代    沢田 キミ
渡辺 照    

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南極観測樺太犬訓練記念碑(なんきょくかんそくからふとけんくんれんきねんひ)
"昭和31年(1956)1月、翌年からの2年間が国際地球観測年にあたることを機に日本が初めて南極観測に参加するにあたって、極地での物資輸送に樺太犬の犬ぞりを使用することが決定されました。この犬ぞり隊の主役が、稚内周辺から集められた樺太犬達でした。樺太犬は、昭和30年頃まで、北国の輸送手段の一翼を担い、冬の犬ぞりはもとより、雪のない季節でもリヤカーに体の何倍もするような荷物を乗せてよく働きました。彼らは体力があり、粗食と寒さによく耐え、指の間にも蜜毛があるなど、特に雪の上での労働に適した特徴を備えた犬でした。馬車は大量輸送に適する一方、小路や悪路では使えず、これをカバーする輸送手段として長い間市民の生活をささえてきたのです。しかし、車の発達した現在では町中で犬ぞりを見かけることはありません。
南極へ出発する前に「犬ぞり隊」は、稚内公園で約8ヶ月間、樺太引揚者でニブフ※(ギリヤーク)の後藤直太朗氏の厳しい訓練を受け、その中から選び抜かれた22頭の樺太犬が、南極観測船「宗谷」で第1次越冬隊とともに東京港晴海ふ頭から白い大陸へと旅立ったのが昭和31年(1956)11月のことです。南極大陸に着いてからの樺太犬の活躍はよく知られてるところですが、昭和33年(1958)、南極の悪天候を克服できずやむを得ず樺太犬15頭が現地に置き去りにされるという悲劇がおこりました。
そして、翌34年(1959)1月、第3次越冬隊が昭和基地を訪れたところ、樺太犬タロ・ジロの兄弟犬が奇蹟的に生き延びていたことは今でもよく知られています。
稚内市は、こうした南極観測史上に燦然と輝く一ページを記した樺太犬の功績を讃え、この記念碑を製作しました。記念碑は加藤顕清氏作のブロンズ像で、台座には南極で採取した白い石が埋め込まれています。
除幕式は、樺太犬を南極に置き去りにした隊員への非難と、タロ・ジロ奇跡の生還の歓喜がうずまく中で、昭和35年(1960)7月に、関係者多数の出席のもとに執り行われました。
※ニブフ・・・サハリン北部からシベリアの黒竜江(アムール河)河口の地方に住む北方民族。主に漁労やアザラシ等の怪獣狩猟に従事していた民族。"

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樺太犬供養塔(からふとけんくようとう)
"南極観測で亡くなった犬達の霊を慰めるための慰霊碑で、稚内公園山頂の犬ぞり訓練跡地に昭和36年(1961)10月に建立されたものです。観測隊がケルンを作り、それを道標として雪原を前進したことから、慰霊碑は三角のケルンに秩父石がめぐらされており、高さは2mあります。稚内市では毎年八月上旬に、この慰霊碑の前で市内の小学生が中心となり、花束を捧げ、『タロー・ジローの樺太犬』の歌を合唱し、盛大に慰霊祭が行われます。
稚内市民にとってタロとジロは永遠のヒーローであり、当市の子供達は、こうして今もなお樺太犬への深い愛情を持ち続け、慰霊祭は次代へと受け継がれています。"

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稚内市開基百年記念塔(わっかないしかいきひゃくねんきねんとう)/稚内市北方記念館(わっかないしほっぽうきねんかん)
"稚内市開基百年記念塔は、昭和53年(1978)7月、稚内の「開基百年」と市制施行30年を記念して、総工費4億6千万円を投じ建設されたもので、稚内公園の丘陵、海抜170mの位置にあります。鉄筋づくり2階建ての「稚内市北方記念館」を基部に、地上80mの高さを持つ鉄筋コンクリート中空型の「記念塔」からなっており、その横には、NPO法人稚内山野草同好会が管理している「稚内市北方植物園」があります。
また、1階・2階部分は「北方記念館」となってあり、平成21年6月から10月まで開催された「間宮海峡発見200年祭”間宮林蔵展”」に伴い、施設開設以降初めてリニューアルされました。1階展示室では、江戸時代に樺太(現ロシア連邦サハリン州)を探検して島であることを発見した日本人で唯一世界地図に名前を残す間宮林蔵や、北の防人(東北武士によるロシアの南下政策に備えた北方警備)たちの生活に特化した資料が展示されており、当時の宗谷越冬の厳しい生活をかいま見ることができます。
さらに、2階展望室には、南樺太が日本の領土だった頃の懐かしい地図や資料、そして近代の稚内とサハリンの関係を伝える資料など、貴重な「樺太関係資料」が展示されています。
塔の下から70mの高さの位置(海抜240m)には、4面ガラス張りの定員45人の展望台があり、そこへは15名乗りのエレベーターで一気に昇る(所要時間約1分)ことができます。展望台からの見晴らしは240mの上空から望むこととなり、南は広大なサロベツ原野、東は茫洋たるオホーツク海、西は日本海に浮かぶ利尻・礼文島、そして北は宗谷海峡を隔ててサハリンの島影をとらえることができ、正しく360度の大パノラマを楽しむことができます。
記念塔前庭には、自由美術家協会々員の峰孝氏の彫刻”出”があります。これは、稚内市2世紀の主役である若者の心意気を、出番を待つ若きバレリーナに託して制作されたものです。
また、6月から10月までの期間は、夜間のライトアップを行っており(日没~午後10時)塔の美しい姿を楽しむことができます。
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